ハウス・アム・ホルン
中央に位置する部屋。採光は、小さなワークルームのパノラマ窓と、サンドブラスト(砂の吹き付け)加工をした採光用の高窓のみ。この控えめな効果は計算されたもので、畳敷きの日本の和室をヒントにしているとされる。バウハウスで教えた教師らは、東洋の瞑想を教室で取り入れていたという。 「これはバウハウスについてあまり知られていない側面なのですが、秘教的な運動に走る人びともいました。代表的なのが画家でデザイナーだったヨハネス・イッテンと、画家で建築家のゲオルク・ムッヘです。イッテンはのちにマスダスナン運動(宗教的な生活実践運動の一派)に加わり、バウハウスの人々を勧誘しました。当時、グロピウスはこれに強く反発し、彼らの影響力が拡大しないようにつとめました」とジーベンブロートさんは説明する。
「今ここにある作品はどれも学生の手によるものです。すべて誰がつくったのか名前がわかるようになっているのが驚きです。学生が制作した作品はみな学校に所属するものとなっていたんですね」とジーベンブロートさんは説明する。 子ども部屋には、木彫工房に所属していた学生、アルマ・ブッシャーが考案した、多機能につかえる遊びスペース(プレイグラウンド)がつくられている。ブッシャーは天井の照明もデザインした。もともとは映写装置として考案されたもので、クランクを回して下へ降ろせば、子どもたちが好きな形に切り抜いた厚紙などを置いて光と影の遊びを楽しめるというアイデアだった。 「モホリ=ナジは、このすぐあとに有名な作品《ライト・スペース・モジュレータ》(光と影を利用した機械仕掛けの装置)を制作しました。バウハウスの工房を見て回り、ブッシャーのこの照明にヒントを得たのかもしれませんね」とジーベンブロートさんは説明しながらウインクしてみせた。
キッチンはベニータ・オッテの設計。当時の写真を元に忠実に再現されている。1926年にシステムキッチンの先駆けといわれるマルガレーテ・シュッテ=リホツキー設計の「フランクフルト・キッチン」が誕生したが、その3年前にこのキッチンはつくられた。シュッテ=リホツキーはおそらくこのキッチンの実物か写真を目にしていただろうと思われる。ドイツ建築家協会は1923年の年次総会をワイマールで開いたため、建築関係の専門家多数が《ハウス・アム・ホルン》を訪れた。また、グロピウスの建築事務所で所長となり、ハウス・アム・ホルンの建設では現場監督も務めた建築家のアドルフ・マイヤーは、のちにフランクフルトへ移り、エルンスト・マイとともにフランクフルトの公営住宅プログラムに携わっている。
ジーベンブロートさんは「バウハウス友の会」の会長でもあり、バウハウスとの縁は子ども時代にさかのぼる。「私が最初に絵を教わったのが、バウハウスで学んだヘートヴィヒ・フシュケでした。幼いころ、フシュケおばさんの家に行くといつも、小さなバウハウス製の椅子に座って、バウハウス製の小さなお皿でおやつを食べさせてもらったものです」と振り返る。 ジーベンブロートさんはベルリンのアドラースホーフ地区で育った。自宅はかつてバウハウスでも教えたルートヴィヒ・ヒルベルザイマーが手がけた集合住宅だ。マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクでは、父親ほど年の離れた画家で版画家のコンラート・フェリクスミュラーと親交を結んだ。彼にとってバウハウスとのつながりは運命のようなものだった。《ハウス・アム・ホルン》を案内してくれるジーベンブロートさんからは、熱意が伝わってくる。写真は、マルセル・ブロイヤーがデザインした椅子(リプロダクト)に腰掛けるご本人。 建築当時のオリジナルの家具は失われて久しい。1923年の展示は8月15日から9月30日までのわずか8週間だけだった。その後、家は何度か住み手を変え、改装や改築が重ねられた。
ワイマールにも暮らした、比較的無名の表現主義画家のひとり、パウル・コザーの油絵。写真は2016年5月に《ハウス・アム・ホルン》で開催された企画展。 《ハウス・アム・ホルン》を訪れた人は、バウハウスについての認識を新たにする。「いわゆる『白いモダニズム』とは、ある意味で、実際には存在しなかったといっていいでしょう。モダニズム=白というイメージは、メディアが生み出したもの。建築雑誌でプロジェクトを取り上げるとき、1970年代以前は白黒写真が一般的でした。でも実際のところ、バウハウスにはしっかり色が存在していたんです」とジーベンブロートさんは話す。当時も今も《ハウス・アム・ホルン》を見れば一目瞭然だ。 《ハウス・アム・ホルン》は地中海の中庭式住宅(コートハウス)を思わせる配置で、中心になる部屋の周囲を他の部屋が取り囲む形になっている。中央に位置するリビングは面積の3分の1を占め、採光用の高窓から自然光が入る。リビングを取り巻くように、小さなワークルーム、男性の部屋、トイレとバスルーム、女性の部屋、子ども部屋、ダイニング、キッチン、ゲストルームの各部屋が位置する。
《ハウス・アム・ホルン》は実験住宅だが、設計したのは、建築家ではなく画家でグラフィックデザインも手がけたゲオルク・ムッヘだった。ムッヘはバウハウスの織物工房を率いていた。のちに高く評価されることになる造形家たちも、学生としてこの家の建設に参加している。マルセル・ブロイヤーはリビングの家具と「女性の部屋」の家具や調度のデザインを手がけた。マルタ・エルプスはラグを製作し、マイスターの1人ラスロ・モホリ=ナジは「男性の部屋」の照明デザインを担当している。 《ハウス・アム・ホルン》はバウハウスの敷地内の庭に建てられ、庭の菜園では食堂で使う食料を学生たちがみずから育てていた。建築には当時は斬新とされた資材を取り入れている。壁と天井はセメントでつないだスラブコンクリートの軽量ブロックを使用し、石積みの二重壁の間にトルフォリウムと呼ばれる断熱材の層を入れた構造だ。薄く、エネルギー効率のいい素材のため、輸送コストも減らせるし、暖房費用も抑えられる。 「史上初のエコ住宅といっていいかもしれません。新工法のおかげで、当時の標準的住宅に比べて暖房費用は半分ですんだのです」とジーベンブロートさんは話す。
ハウス・アム・ホルン概要 建物概要:バウハウスが建てた最初の建築物 所在地:ドイツ、チューリンゲン州ワイマール 規模:120平方メートル 設計:ゲオルク・ムッヘ(設計)とバウハウスの学生(マルセル・ブロイヤー、グンタ・シュテルツル、アルマ・ブッシャー(内装) 現在、バウハウスと聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、建築だろう。デッサウにあるバウハウスの校舎と《親方の家(マスターズ・ハウス)》はよく知られている。建築家のワルター・グロピウス、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエはともにバウハウスの活動との関連で語られることが多い。しかし、グロピウスなど、バウハウスに関わった人びとにとって、ここでの活動は建築という枠組みを越えた総合的な取り組みだった。 「あらゆる芸術を再統合することが、バウハウス運動のコンセプトの中心にあったのです」と語るのは、《ハウス・アム・ホルン》のディレクターで、ワイマールにあるバウハウス・ミュージアムのキュレーターを務めるミハエル・ジーベンブロートさんだ。「バウハウスでは、すべての人がチームの一員として活動しました。工房がたくさんあり、工業生産用の規格化プロダクトを制作していました。バウハウスはある特定のスタイルを生み出そうとしたのではありません。スタイルとは模倣を意味するからです。バウハウスは新たな創作をめざす学校だったのです。」
《ハウス・アム・ホルン》は時代の変化を乗り越え、今も生誕の地に立っている。第二次大戦後はワイマール市に譲渡され、バウハウス大学の教授が長年にわたって住んでいた。1996年、《ハウス・アム・ホルン》を含むバウハウス関連の建物群はユネスコの世界文化遺産に指定された。 現代のワイマール市民は、「一風変わった個性的な」芸術家たちと、後世に多大な影響を与えた20世紀の学校がこの町に建てられたことを、誇りをもって受けとめている。ハウス・アム・ホルンはリノベーションを経て、現在、ワイマール・バウハウス大学のバウハウス友の会が借りる形をとっている。2017年には、バウハウス博物館の一部としてワイマール古典財団に譲渡される予定だ。
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